いのちのバトン
前から一度読んでみたかった本。
ほっとしますね。
ちひろさんの絵がマッチしていて、ほんわかします。
久しぶりに書けた。
国語の読解とかも読んだのですが、
夫のお勧めは、福嶋先生。
等。
私は、
本人が読むなら
親が読むなら
こっち。
これも借りてみた。
お母さんの努力が出来るなら、早川さんはお薦めだと思う。
つくづく思うのですが、
国語は日々の生活の中で地道に構築されるものだと思いました。
それには家庭環境の影響がとても大きなウェイトを占めます。
私の育った家は、父が高校に行きながら始めた農業が、後に会社になって行った自営業でした。
農村地帯の田舎で、封建的な家風で育った私です。
祖父は、選挙や、役が好きで、理事長等をいくつか兼任していました。
だからといって裕福ではなく、その頃長者番付に乗るくらい祖父の年収が上がっても、祖父はそのお金をすべて交際費に使っていましたので、父が祖母と、農作業をして生計を立てていました。
更に、女に学問は必要ないという父の考えでしたので、私に与えられた自由な時間はほとんどありませんでした。
それでも、父や祖父の交友関係上、いろいろな話を聴いて育つことが出来ました。
そして、あまり本を読んだり、買ったりしている父ではありませんでしたが、新聞だけは、惜しみなく投資をしていました。
絶対的に普遍だったのは、日本経済新聞です。朝夕刊買っていました。それから地元の地方新聞、全国紙の新聞、農業新聞、毎日ではありませんが鶏鳴新聞等も購入していました。
そして、私たちが小学校中学年頃から小学生新聞も買ってくれていました。
父や、祖父の所に来客が来ると、(それがもう頻繁なのです。)お給仕係は私や母です。
哲学やら、経済やら、経営やら、いろいろな会話が飛び交う中で、無意識のうちにそれらを吸収できたことが、後に国語を勉強しなくても点が取れることに繋がったと思います。
当時は、分からなかったけれど、論語に適応した生活だったことも、後に論語を読んで初めて知りました。辞書を引いて分からないことを調べる等の勉強に対する態度も父が後姿を示し、私が聞いても必ず、自分で調べなさいという繰り返しで身に着けた気がします。
夫と結婚して、暫くしてからそのことに気がつきました。夫の家族との会話の内容の大きなギャップは、今も埋められません。
言い様のない寂しさを感じます。
それどころか、そういう難しい話(とは思っていませんが)は、煙たがられます。
非難されてしまうのです。
早川尚子さんの本を読みながら、
改めて、家族のあり方を再考させられました。